曽根崎・梅田地域の総鎮守 露 天神社(お初天神)

露 天神社(お初天神)

露 天神社の創建は一千年を遡り、難波の海に浮かぶ曽根洲に「住吉須牟地曽根ノ神」(スミヨシスムチソネノカミ)を祀り鎮座されたと伝えられています。現在の曽根崎の地名はこの神名によるとされています。露 天神社の詳しい創建年代は不明ですが、古代祭祀として重要な位置を占めていたとされる「難波八十島祭」(※1)旧跡の一社として数えられ、この祭祀が6~7世紀頃まで遡れることから、同社の起源もこの頃かと推察されます。南北朝時代(1336年~1392年)になると、曽根洲もしだいに拡大して地続きの曽根崎となり、この頃に北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が移住し、露 天神社を鎮守の神として田畑を拓いて農事を始めています。これらによって曽根崎が村としての体裁を整えていきました。

「難波八十島祭」古代難波において天皇ご即位の翌年に執り行われた皇位継承祭祀の一つで、6世紀の欽明天皇の頃には形式が整っていたとされています。


露 天神社(お初天神)

その後曽根崎には大きな変化もなく穏やかに時を刻みましたが、明治7年(1894)の梅田停車場(初代大阪駅)に始まり、阪神電鉄出入橋停留所、京阪神急行電鉄株式会社の梅田停車所などが相次いで開業したことで、劇的に変化、発展することになりました。昭和に入り、大戦で本殿・拝殿など境内の建物ほとんどを消失するなど壊滅的な被害を受け、戦後の混乱期には数々の苦難が続きました。

露 天神社(お初天神)

現在、露 天神社は曽根崎・梅田の総鎮守として地域と共に発展を重ね、本殿・拝殿・社務所・手水舎・正門など境内各所が整備され、近年では連日の参詣者が引きも切らず年間50万人を数えています。

御井社・祓戸社

社名の由来の一つともいわれる御井社・祓戸社社殿直下の御井は、往時四天王寺の亀の井・清水寺の井・二つ井戸などとともに、「浪速七名井」の一つと称されてきました。社名の由来の一つともいわれ、真水の少ない大阪で、周辺地域だけでなく社地横を通る旧池田街道を行き通う人々にとっても、貴重な井戸として知られていました。地下鉄各線や高層ビル群の建設等により水量は激減しましたが、境内に現存しています。

水天宮と金比羅宮

水天宮と金比羅宮久留米藩大坂蔵屋敷の水天宮と、丸亀藩と高松藩大坂蔵屋敷の金比羅宮が明治維新後に合祀されています。

神牛舎

神牛舎「神牛さん」「撫で牛さん」と呼ばれ、身体の病むところと神牛さんのそれを交互に撫で摩るという信仰が、古来より続いています。


開運稲荷社

開運稲荷社「キタの大火」によって近在各地に祀られていた四社の稲荷社が烏有に帰し、翌年に境内地にそれらを合祀し開運稲荷社として祀られました。古くは皮膚病の治癒を願って「鯰」の絵馬が多数掛けられ、お百度を踏む人々で混み合うほどだったと伝えられています。現社殿は一部修復工事を施したものの往時のままです。

難波神明社

難波神明社神明神社は伊勢神宮内宮を総本山とし天照大神を祀る神社です。平安初期の弘仁12年(821)、源融(みなもと・とおる)が伊勢町(今の西天満辺り)の孤島に祀られたのが始めといわれています。往時はこの地を「大神宮の北の洲」、または「神明の鼻」と称し、一帯が境内地でした。社が西に向いていたところから「夕日の神明」「夕日神社」と呼ばれていました。


曽根崎心中

『曽根崎心中』とは…生玉の社でひと休みしていたお初は恋仲の徳兵衛と遭遇し、最近会えないのはどうしてかと詰め寄ります。徳兵衛は奉公先の主人の意向で結婚話が進んでいるが、持参金を返して断ると説得します。ところが徳兵衛は油屋の九平次にお金をだまし取られ、あろうことか九平次とその仲間に袋叩きにされます。そのことを耳にしたお初は徳兵衛のことを心配し、「いっそ徳兵衛と一緒に死んでしまいたい」とまで思い詰めます。変わり果てた徳兵衛が会いに来ると一緒に涙にくれ、そして覚悟を決めて心中を遂げんと死出の旅へと向かいます。曽根崎の森(露 天神社)で木の幹にお互いの体をしっかり結びつけ、徳兵衛は自分の脇差の刀でお初ののどを刺し、続いて自分も命尽き果てたのです。

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