曽根崎地域は、西日本最大のターミナルであるJR大阪駅の南部および南東部に位置し、堂島地域や梅田東地域などとともに「キタ」の一部を形成しています。今日では大阪の中心といえる地域ですが、かつては淀川支流の曽根崎洲と呼ばれる淀川河口の砂洲でした。
曽根崎の「ソネ」(埆)は、石が多くやせた土地のことで、人が暮らしを営めるような土地ではなかったのです。千三百年の歴史をもつ露 天神社の社伝によると、現在の地に「住吉須牟地曽根ノ神(スミヨシスムチソネノカミ)」を祀って鎮座したとあり、曽根崎の地名は神名によるとされています。
14世紀の南北朝時代になると、曽根洲も次第に広がり地続きとなりました。
その頃から、渡辺十郎源契や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が移り住んで開拓が進み、露 天神社を鎮守の神として曽根崎村を起こしたといわれます。その後、江戸時代に曽根崎の名を広めたのは、近松門左衛門作の『曽根崎心中』でした。
明治時代を迎え、明治7年(1874)に初代大阪駅「梅田すてんしょ」が開業したことにより大きく変わり、現在の発展の礎が築かれました。明治30年(1897)に曽根崎村は大阪市へ編入され、大阪市北区大字曽根崎となり、幾多の変遷を経て今日に至っています。