明治7年に民家に平屋を増築して
第3区小学校として開校曽根崎小学校は、明治7年(1874)8月、西成郡の第3区小学校として、西成郡曽根崎村231番地(梅田1丁目大阪駅前第2ビル周辺)に設立されました。開校当時は55坪の民家に42坪の平屋を増築し、生徒数約200名でスタートしています。校舎は、明治28年(1895)に梅田一丁目の阪神百貨店南側付近への移転を経て、明治43年(1910)に曽根崎二丁目(元・北野小松原町)に移転し、閉校までここを校舎としました。
明治42年(1909)7月31日にキタの大火が起こり、曽根崎校区内の7割が類焼しましたが、校舎は被災を免れることができ、同年12月15日に新校舎建設の上棟式、翌年3月30日に新校舎落成式を挙行し、4月から新校舎での授業を開始しています。大正3年(1614)3月28日には、階下がれんが造りの3階建校舎が落成しました。その後、昭和3年(1928)3月7日に鉄筋3階建南校舎を改築落成、昭和6年(1931)2月4日には鉄筋3階建西校舎が改築落成しています。昭和9年9月21日、室戸台風で木造の北校舎1棟16教室が倒壊し、仮住まいを余儀なくされた時期もありました。昭和12年(1937)12月28日に鉄筋3階建北校舎が竣工しました。
昭和16年(1941)4月1日に校名が曽根崎国民学校と改称され、第2次世界大戦の悪化によって、昭和19年(1944)9月に小学生3年以上227名が滋賀県虎姫町に集団疎開しました。太平洋戦争の戦災は地域に大きな被害をもたらし、曽根崎国民学校も昭和20年(1945)3月13日・6月1日の2度の大阪大空襲で被災しました。
終戦直後には、戦災による校舎被害や地域人口の減少によって、国民学校の大幅な統廃合が実施されることになります。堂島国民学校と北野国民学校は休校となり、曽根崎国民学校へと統合されました。
昭和20年(1945)8月、第2次世界大戦で降伏して連合軍に占領され、戦後の復興が進んで、昭和22年(1947)の学制改革により、大阪市立曽根崎小学校が発足しました。その後の復興著しく、日本は高度経済成長期を迎えます。小学校教育も大きな変化が見られました。
朝日新聞社主催の健康優良学校日本一にも選出されています。昭和天皇皇后両陛下がご臨席して、皇居にて受賞式が行われました。
昭和30年代から40代半ばにかけて、都心部から周辺部への人口の転出が起こるドーナツ化現象が進み、曽根崎地域での児童数の減少傾向も目立つようになり、小学校の統廃合が検討されました。昭和60年(1985)9月27日には曽根崎小学校と堂島小学校の統合が決定し、翌年4月1日付で曽根崎小学校の校舎で大阪市立曽根崎小学校として実施されました。さらに平成元年(1989)4月1日付で曽根崎小学校と梅田東小学校が統合して大阪市立大阪北小学校として開校しました(開校当時148名の児童在籍)。しかし。大阪北小学校開校後も児童数の減少傾向は止まらず、大阪北小学校と大阪市立扇町小学校が平成19年(2007)4月1日付で統合することが決定し、校名を大阪市立扇町小学校とし、従来の扇町小学校敷地を使用することになりました。
人格形成の基礎を培った伝統ある曽根崎幼稚園曽根崎幼稚園は、昭和8年(1933)2月に曽根崎小学校の一部を改造して開園しました。梅田の大地主・渡邊新右衛門氏が幼稚園設立を条件として大阪市に1万円を寄付したことによるものです。以来、戦争で一時休園したものの、平成19年(2007)の閉園まで60有余年、5000人以上の園児を送り出しました。